キャンプ場をまだ暗いうちに出発。今日帰る予定なので昼過ぎには戻ってこなければならない。 ヘッドランプをつけて出発。降るような星空の下、涸沢への道を歩く。ときどきランプを消しては、 空を眺めた。 川から少し上の斜面に沿って道が続いている。途中間違って谷を登ってしまい、時間をロスしてしまった。
吊り橋を渡る頃になるとようやくランプ無しで周りが見えるようになった。まだ歩いている人はいない。遠くに涸沢ヒュッテの明かりがちいさく見えた。
紅葉の終わった涸沢は岩ばかりだ。横尾に比べてこっちの方がテントが多い。水場を探すが見つからなかった。そのまま登るとパノラマコースの登りになった。 やっと雲間から朝日が顔を出す。残念ながらモルゲンロートとはいかなかった。
斜面はどんどん急になる。空気が薄いせいか息苦しく、立ち止まっては何度か深呼吸。雪をすくって口に入れた。
穂高岳山荘に着く。尾根から西側が少し見えた。雪のついていない石のベンチに座り、残りのバナナとパンをかじる。 強い風が雲を連れてきた。小屋から山頂に向かって1人か2人分くらい足跡が付いている。予定よりも早い時間だったので山頂まで行くことにする。
登り始めるといきなり雪が深くなった。足跡を辿り登って行くと、梯子と鎖の急斜面が待っていた。 風はどんどん強くなる一方だ。飛ばされそうになりながら足跡を辿る。
やがて風に雪が混じり出した。3000m超の山での吹雪は初めての体験だ。 それまで何とも無かった断熱の手袋を通して冷気が感じられる。Storm Cruiser の防寒は完璧だ。 フードを目深に被る。視界が狭くなるが構っていられない。 強い風で息が苦しくなる。立ち止まり風下を向いて大きく呼吸を繰り返した。
稜線から外れると雪は深いところで膝より上にまで達する。続く足跡だけが唯一の頼りだった。 山頂はなかなか見えない。気温はマイナスになっているだろう。安比のスキー場よりちょっとはましかもしれないなどと考える。 引き返そうかと思い始めた時に山頂への道標が見えた。 道標を左に進むとあっけなく山頂に着いた。
方向板の影に腰を下ろす。風が回っているようで、どこに座っても大差なかった。 持ってきたワインで祝杯を上げる。安いワインだが冷えてうまかった。一瞬の雲の切れ間を狙って写真を撮る。 ほとんど休む間もなく下山。もう足跡が消えかかっている。 水筒の水は凍ってしまった。 岩場の尾根など雪が無いところでは足跡がついてないのでルートを間違わないよう慎重に下った。 小屋の手前で追いこした人たちは登って来る気配が無い。たったひとりの山頂だった。
梯子を下りると山荘はすぐそこだ。転がり込むように入った。眼鏡が曇る。 ザックを下ろしてやっとひと息ついた。ここは別世界だ。何とか無事に下りて来れたなあとぼんやり考える。
突然、第九の4楽章が流れ出した。思っても見なかった展開にかなりショックを受ける。 玄関の土間から上がってすぐの居間に、山小屋にしては立派なオーディオセットが置かれていた。 WEGA やビデオも揃っている。
あまりに立ち去り難いのでビールを買ってひと休みする。在庫処分とかでレギュラー缶\400、ロング缶\500だ。迷った末レギュラーを買う。下りでふらついたら危険だし。 飲んでいると小屋の人が石油ストーブを持ってきてくれた。ちょっと恐縮した。
合唱が始まった。公衆電話があったので会社に電話して無事を報告する。 まさかこんなところにいるとはさすがに思わなかったようだ。 最後まで聞きたかったがそろそろ下らなければならない。またいつか来よう。今度は泊まりで。
雪は降り続いて展望は無くなっていた。急斜面を一気に下る。途中、登りでは大丈夫だった斜面が凍って滑るので軽アイゼンをつけた。 でも少し下った岩場から先はあまり雪がついてなかったのですぐにアイゼンは外す。 降る雪は、下るにつれてぼた雪になってきた。ほとんど写真を撮るチャンスも無く涸沢小屋まで下った。
テントを畳んで帰る人が何人か下りてきた。遅い人は抜かせてもらい、早い人には先に行ってもらう。雪は止んでいた。涸沢から下は降っていないようだ。
残りのパンを食べて、テントを片付ける。意外と撤収に時間がかかってしまった。 重い荷物にふらつきながら上高地に戻る。来た時と違って一山稼いだ後なので足取りは重く、道程がとても長く感じられた。
橋を渡る手前で穂高連峰に向かい、ウェストン卿を真似して「サヨナラ、ホタカ」とつぶやいてみた。
駆け抜けるような3日間だった。重荷を背負って登るのを避け、横尾ベースに3つの百名山を登る。かなりハードだったし槍の山頂には登れなかったのは残念だが、何とかひとりで登ってしまった。それも憧れの北アルプスの3000m 級の山々に。 心地よい疲労の中、また憧れがひとつ消え、思い出がひとつ増えた。